年も参加者数TOP!! 初の「マスターズNEWS」からの取材があり、おそらく次号で掲載されるものと思われます!
廃期、競泳の世界記録を30回以上も更新し、敗戦で打ちひしがれた日本人に自信と希望を与え、その後もスポーツ振興に尽力してきた。今後も「少しでも役に立ちたい」と情熱は衰えを知らない。「日本ではスポーツの社会的評価が低い。スポーツは社会のためになるんだと証明したかったので、受章は光栄であり、ありがたい」。古橋さんが相好を崩した。 日本は第二次大戦後最初の1948年ロンドン五輪に招待されなかった。「五輪で日本の実力を示したい」との思いを断たれた日本水連は妙案をひねり出す。日本選手権をロンドン五輪の日程に合わせて開催、記録の上で世界と戦おうという計画だ。いわば日本水泳界が世界に叩きつけた挑戦状。この日本選手権で同五輪の優勝タイムを上回る世界新をマークしたのが古橋さんだった。翌年ロサンゼルスで開催された全米水泳選手権に参加し、ここでも世界新記録を連発。五尺七寸五分(約174センチ)、十九貫(約71キロ)の青年の偉業を現地の新聞は大きく報じ「フジヤマのトビウオ」と絶賛、有名なニックネームが生まれた。旧制中学3年のとき、勤労動員先の軍需工場で事故により、左手中指を第一関節だけ残して切断するというハンデを「努力と工夫」で克服し、食糧難の時代に「サツマイモと岩塩をなめて」練習を重ねた成果でもあった。現役を退いてからは選手育成はもちろん、1964年東京五輪開催などスポーツ振興に尽力し、日本オリンピック委員会会長、国際水連副会長などを歴任。気さくで実直な人格で日大教授時代は学生にも慕われた。「さすがはスポーツマンだと、いろいろな見本になるよう頑張ってほしい」。こう後輩にエールを送る古橋さんは北京五輪から帰国後、肺炎で3週間余り入院したが「体を元に戻し、2012年ロンドン五輪や16年東京五輪招致に向け、少しでも役に立ちたい」。瞳に力がこもっていた。